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水原華城 その2 悲劇が生んだ水原華城の築城   (displayed 4473 times.)

水原華城は「孝の都市」と呼ばれています。それは正祖(チョンジョ)の孝心こそが華城を生んだとする崇拝の心からきています。

水原華城
正祖(1752-1800)は祖父英祖(ヨンジョ)が第21代国王の時に生まれた。父愃(ソン)が次の王になるはずだったが、「愃は王にはふさわしくない非行があった」という反対勢力の申し出を、英祖が真に受けてしまった。
激怒した英祖は愃に自決を求めるが、その命に従わなかったということで、森深くに愃を米櫃に入れたまま放置し、餓死させてしまった。

このことが正祖に影響を与え、たいへん苦しめたといわれている。

後にハングルを創製した第4代世宗(セジョン)大王とともに偉大なる王と称されるようになったのは、父の悲惨な死が大きな教訓となって、政争を払拭し民優先の政策を実行したことと、儒教の根幹といえる「孝」を華城として現したからといえるでしょう。

また、母恵慶宮(ヘギョングン)ができ物に苦しんだ時、(死に到ることもあった時代)医者に任せず、自らの口で膿を吸出し、看病したという逸話もあり、孝心の鑑として今も語り継がれているそうです。

しかし、正祖の最大の目標は父の名誉回復でありました。25歳で国王になったが、常に頭から離れなかったのは、どのようにして父の名誉を回復するかということ。名誉の回復とは父愃を国王として追尊することでした。墓所の移葬をすることから始めて、民のための改革の基礎として出発した。

父は、王子としてしかるべき葬儀の儀式をされず、墓地も風水による選定もされなかった。正祖は墓地を移葬するにあたり、父の墓所が不吉な場所にあり、それゆえこどもが授からないということを理由に移葬を進めたといわれている。後に水原華城に移葬を終了した直後、王妃が受胎したということで、正祖の孝心に天も感動したのだろうと人々の間で話題になったそうです。

2006-06-06(22:36:16) - 韓国の観光 - msm - TrackBack(No Trackbacks)

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