城郭の全長は54
18mで48の施設がある。
1794年から2年半にわたり築城した。華城は地形の高低と屈曲に従い築城されたので、内部に広い渓谷を取り巻く周囲の尾根に沿って城壁を築造している。
韓国では初めて現代の起重機に似た拳重器(コジュンギ)が使われた。材料を規格化したことや、代表的な防御武器として火砲をしたこと、遠距離・近距離に分けた銃や弓など、優れて科学的であったらしい。
東西南北の関門、敵の動静を監視する空心(コンシン)ドン、兵士を訓練するために作られた施設、通信施設ポンドン等も築かれた。
空心ドンは韓国の他にはない独特の施設であるそうだ。それは正方形の高楼の後の壁に柱を立て、八作屋根を乗せた防御施設である。構造も特殊で様子も美しいという。
暗門(敵に悟られないように出入りできる門)は3ヵ所あり、西暗門は道が上を通っているので、外からも中からも門があることさえわからないようになっている。
たいへんよく考えられていて、さらに美しい水原華城であることは、間違いないでしょう。
2006-06-09(22:25:17) - 韓国の観光 - msm - No comments - TrackBack(No Trackbacks)
水原は風水により調和のとれた明堂(ミョンダン)評価されていたところだった。朝鮮実学者の柳馨遠(ユ・ソンウォン)の志に共鳴した正祖は、当時閑村だったこの地の平地に着目した。
この地に都市を建設し城郭を造れば、首都ソウルを防衛し、経済的にも繁栄する、と書いた本を読んだそう。正祖自身の考えと一致したことから、築城を決定したらしい。
朝鮮においても商業資本主義が著しく発展した時代だった。商業の発達は必然的に交通の発達を促した。ソウルと水原は地理的にも近く(約
10里・40キロ)の距離にある。
正祖は商人を招き、農業に欠かすことのできない施設である貯水池(潅漑)を造らせて、国営農業を振興した。
1997年に世界文化遺産に登録された理由は色々あるようですが、最大の理由は独特な建築様式にあったそうです。中国や日本の様式とも違う朝鮮建築様式というべき独特な手法が施されているが、中国や日本の城郭築造の様式も部分的に取り入れられている。
華城の主な資材は石材であり、韓半島には豊富な花崗岩があるので、古くから熟練した職人が多く存在した。また、中国で発達していた煉瓦作りにも成功した。石材と煉瓦を混用して華城は造られた。
城壁上の楼閣、城門を初めとする暗門、砲楼等すべてひとつひとつ同じ形はないそうです。
2006-06-07(22:49:36) - 韓国の観光 - msm - No comments - TrackBack(No Trackbacks)
水原華城は「孝の都市」と呼ばれています。それは正祖(チョンジョ)の孝心こそが華城を生んだとする崇拝の心からきています。
正祖(
1752-
1800)は祖父英祖(ヨンジョ)が第2
1代国王の時に生まれた。父愃(ソン)が次の王になるはずだったが、「愃は王にはふさわしくない非行があった」という反対勢力の申し出を、英祖が真に受けてしまった。
激怒した英祖は愃に自決を求めるが、その命に従わなかったということで、森深くに愃を米櫃に入れたまま放置し、餓死させてしまった。
このことが正祖に影響を与え、たいへん苦しめたといわれている。
後にハングルを創製した第4代世宗(セジョン)大王とともに偉大なる王と称されるようになったのは、父の悲惨な死が大きな教訓となって、政争を払拭し民優先の政策を実行したことと、儒教の根幹といえる「孝」を華城として現したからといえるでしょう。
また、母恵慶宮(ヘギョングン)ができ物に苦しんだ時、(死に到ることもあった時代)医者に任せず、自らの口で膿を吸出し、看病したという逸話もあり、孝心の鑑として今も語り継がれているそうです。
しかし、正祖の最大の目標は父の名誉回復でありました。25歳で国王になったが、常に頭から離れなかったのは、どのようにして父の名誉を回復するかということ。名誉の回復とは父愃を国王として追尊することでした。墓所の移葬をすることから始めて、民のための改革の基礎として出発した。
父は、王子としてしかるべき葬儀の儀式をされず、墓地も風水による選定もされなかった。正祖は墓地を移葬するにあたり、父の墓所が不吉な場所にあり、それゆえこどもが授からないということを理由に移葬を進めたといわれている。後に水原華城に移葬を終了した直後、王妃が受胎したということで、正祖の孝心に天も感動したのだろうと人々の間で話題になったそうです。
2006-06-06(22:36:16) - 韓国の観光 - msm - No comments - TrackBack(No Trackbacks)
丹陽からまたバスで移動し、忠州湖に到着しました。
ここから遊覧船でクルーズです。
といっても大きな船ではなく、エンジン音の大きいうるさい船でした。
しかし、湖を滑るように進んで行くのは素敵でした。ここは「韓国の桂林」といわれるくらい風光明媚な所です。
天気もよく快適でしたが、夕暮に訪れるのもよかったでしょうね。クルーズは25分くらいでした。春から秋までは大勢の人で賑わうのだろうなと思われました。
「丹陽(タニャン)2」の次に入るべきブログでした.前後してます。
2006-05-21(21:55:52) - 韓国の観光 - msm - No comments - TrackBack(No Trackbacks)
1997年に世界遺産に登録されました。朝鮮王朝第22代国王によって築城され、その工法や独創性も素晴らしく200年を経た今も名城として生き続けています。
最初に訪れたのは昨年3月でした。東の蒼龍門(チャンヨンムン)から東北空心ドン(トンブクコンシムドン)へと歩いて一周しました。一周すると、2時間から3時間くらいかかります。
はっきり言ってそんなにかかると思っていなかったので、歩き始めてから「えらいことになった・・」思いましたが、気候も良くよい運動になりました。
蒼龍門からはワールドカップが行われた水原の競技場も見えました。
城というと日本では天守閣があって・・・などど想像しますが、ここは言わば城郭だけがぐるりと繋がっています。そしてその中に街があります。
この華城の中を自動車やバスなどが行き来していますし、わたしたちの街と何ら変わりません。
ただ周りを華城が囲んでいるということです。世界遺産ですが、水原市民の生活と密着していて、華城が生活の場であるとも言えるでしょう。水原市民は華城に誇りをもち、親しんでいます。
それが意外でした。むしろ入場料を取って、開放時間が決まっていて一定のルートで見学するような所だと思っていたからです。
自由に行き来できるような所だとは思っていませんでした。だから華城を見学しながら、街を歩くことができるので、地元のスーパーマーケットに行ってみるとか、華城を見ながらお茶を飲むこともできますね。
2006-05-19(20:40:51) - 韓国の観光 - msm - No comments - TrackBack(No Trackbacks)
忠州湖遊覧船の清風船着場から近い所に、「清風文化財団地」がありました。一言でいうと民俗村みたいな所です。
以前にはドラマの撮影にも使われたことがあるそうです。朝鮮時代の両班(ヤンバン・貴族)の家を模していたり、
こどもたちがよく遊んだといわれるシーソーみたいなノルティギがありました(実際ガイドがやって見せてくれました)。
社会見学?の小学生が来ていました。昔の人の生活が垣間見られるような場所でした。
よく見て歩こうと思えば2、3時間はかかると思いました。
2006-05-13(20:00:00) - 韓国の観光 - msm - No comments - TrackBack(No Trackbacks)
ホテルから川沿いをバスで少し行くと、嶋潭三峰(ドダムサムボン)に到着しました。
流れの穏やかなこの川に、岩が3つ並んでいます。
どうしてこんな岩が、ここにあるのかわかりませんが、この岩は主人と妻と主人の愛人だといわれているそうです。
真ん中の大きな岩が主人です。右側の振り向いているのが愛人で、左端が妻だそうです。浅そうな穏やかな川になぜかポツンとありました。
そこから少し山をあがっていくと、石門があります。これも自然にできたようですが、岩がくり貫かれて川が見えます。
2006-05-11(22:05:00) - 韓国の観光 - msm - No comments - TrackBack(No Trackbacks)
安東(アンドン)をあとにしてホテルのある丹陽へ向かいました。
この日は慶州(キョンジュ)から丹陽まで一日で移動したのですが、約370キロの道程でした(バスの移動はかなり疲れます。
空気枕を持参しました。
中には首や肩が凝ってしんどくなった人もいました)。
丹陽は山の中の静かな田舎町でした。大きなセメント工場があり、海外から観光客が来るような場所ではない(ガイドの話によると)そうです。そういえばコンビニに入っても「あれ?韓国人じゃない(ことばが違う)」という顔をされました。
宿泊したホテルはファミリーにも最適なコンドミニアムで、広くて調理器具も揃っている新しくて大きいホテルでした。中国の団体客も来ていました。きっと夏には避暑に訪れる客がとても多いのだろうなと思われました。
2006-05-09(22:04:43) - 韓国の観光 - msm - No comments - TrackBack(No Trackbacks)
ゆったりとした洛東江(ナッドンガン)をはさんで対岸には、芙蓉台があり地層が見事です。夏には河回村の岸辺から芙蓉台の下まで遊覧する渡し船が運航しているそうです。
河回村は約800年前から伝わるという河回別神クッ仮面劇(ヘファピョルシンクッタルノリ)が有名です。
無形文化財に指定されていて、毎年
10月には仮面劇祭が催され街全体が活気づくそうです。その時芙蓉台の上から洛東江に向かって落とす火だるま遊びもあるそうです(見てみたいですね)。
河回村には
110世帯、230人程が暮らしています。人口の75%が柳氏だそうです。ツアーだったのでゆっくり見て回ることができず、さっさと歩いて回るだけだったので、また是非訪れたいと思います。
安東へはバス、KTX(韓国の新幹線)+バスなどでいろいろなパターンで行くことができます。ソウルからバスだと約3時間で到着し、料金は
15
100ウォン(約
1700円)。KTXではソウルから東大邱(テグ)まで約
1時間45分で、料金は34900ウォン(約4
100円)+バス東大邱から安東まで約
1時間40分で、料金は7300ウォン(約860円)です。
韓国はバスの路線が発達しているので他の地域からの便も多く、便利です(慣れないと難しいですが)。
河回村のなかには民宿があり、ホテルではなく一般家屋のかやぶきの家などで宿泊することができます。料金は3500円くらいからあるようです。
2006-05-02(20:00:00) - 韓国の観光 - msm - No comments - TrackBack(No Trackbacks)
海印寺からまたバスに揺られて「古きをたずね新しきを知る」という表現にぴったりな安東に行きました。
1999年4月、イギリスのエリザベス女王が韓国の訪問の際にも「最も韓国らしい文化が息づくところ」として安東を選んだといわれています。ここは朝鮮時代の儒学者、季退渓(イ・テェゲ)が生まれ育った地として有名です。
両班(ヤンバン・朝鮮時代の貴族のこと)と庶民の文化が交錯する河回村(ハフェマウル)があり、昔ながらのたたずまいを残している街を見ようと韓国内外から多くの観光客が訪れています。洛東江(ナッドンガン)がS字を描くようにここを取り囲んでいることから水が回る村・河回村と呼ばれるようになりました。
柳氏(リュウ・韓国ではユ)が暮らしてきた同族村であり、歴史は600年前に遡るそうで、確かに柳○○という表札は多かったです。
訪れた日は暖かく、のんびりとした感じで昔の街を歩いているようでした。ところどころ工事中のようで小型のパワーショベルやちょっと古そうなサイダーの自動販売機がありました。
エリザベス女王がここを訪れた時の様子を、小さな女王訪問記念展示館でパネル展示されています。そのパネルの中に韓流スターのリュ・シウォンもしっかり映っています。リュ・シオォンのお父さまが、ここの出身で今も屋敷を管理されています。
屋敷の中を見ることはできませんでしたが、立派なお屋敷でした。
2006-05-01(22:42:08) - 韓国の観光 - msm - No comments - TrackBack(No Trackbacks)
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